アマンダおばさんの
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6月10日(日)

<急がば回れ>

ここ数日 日本のあちこちで豪雨や雷が続いた。しかも降ったり晴れたりと落ち着かない。お天気がいいので洗濯物を干して庭いじりをしたとたんぽつぽつと雨、急遽家に駆け込んで洗濯物を取り込んだ、・・・と思ったら一転して晴れ→またまた干して庭に出て花いじり→はたまた雨! とうとう一昨日は居直って土砂降りの中ベランダの洗濯物が濡れているのを横目で睨みながら、ずぶ濡れ状態で庭いじりをしてました(トホホ・・・)。イギリス人はちょっとの雨くらいで傘などささない。雨の中洗濯物が濡れつつ庭いじりをする・・・So what?(それがどうしたっていうんだ?)雨に濡れるのもたまにはいいもんです、ハイ。お陰で洗濯物は濡れたり乾いたりして大分鍛えられたあげく結局乾燥機行きになったのでした・・・。
 我が家の猫の額の庭には今、梅花うつぎとバラ(ピエールドロンサール)が満開だ。毎年この時期になると約束したように咲いてくれる。まるで心から信頼の出来る長年の親友のように変らない心で我が家を訪れてくれる。改めて自然の力の不思議さを感じるとともに畏敬の念を抱く。
 先日テレビで野球の早慶戦を見た。何もハンカチ王子を見たくてスイッチを押したわけではない。スポーツには全く縁のない私だが三男の通う学校(大学院)最後の試合だと思うとつい見てしまった。1日目の試合は斉藤選手が出なかった。結果は7−3で慶應の勝利に終わった。が、2日目はあれよあれよと思う間もなく早大が得点を重ねた。斉藤選手が功を奏したためだろう。まだ1年生の彼を胴上げし、マスコミはこぞってハンカチ王子の功績を讃えた。日本中が沸きあがったと言って過言でないだろう。だが若い才能を周りの大人がダメにしないよう配慮が必要ではないかと感じた。 また、スポーツ推薦でより抜きの選手を保持している大学と推薦をやらない大学が戦って勝つわけがあるだろうか、平等でない条件のもと奮闘した敗者(慶應)の方も賞賛に値するとはいえないだろうか、と思った。
 まあそれはともかくとして、久しぶりで見たスポーツの試合でいろいろ考えさせられた。試合に至るまでどんなに鍛錬を重ねたことだろうか。また自分の失点でチームが負けることだって多々あるだろう、そんなときはきっと自己嫌悪に陥り投げ出したくなるに違いない。仲間との確執、たくさんの挫折、失敗、葛藤を経験したことも想像に難くない。団体競技はもちろんのことだがゴルフにしても決して自分勝手は許されない、スポーツは他との協調が必至だ。
 スポーツをやることによって養われる要素は数多い。目上目下の関係、そして監督や時々稽古付けに来る先輩など人生の先輩との接し方、人への思いやり、時間やルールの厳守などなど将来社会人になって、仕事に就くときに必要なものが大方訓練される。また世の中の厳しさを擬似体験する。いわば予防注射のようなもので、社会人になる前厳しさという抗体を作ることによって実社会に出たときに挫折をせずに済むのだ。逆に言うとそれを訓練されないで育った子達はどうなるのだろうかと案じる。進学校ともなると部活をさせない学校が多々あるという。ひたすら大学受験のための勉強のみに精出す。だがそのときどきで備えられるべき精神の成熟度があるのではないだろうか。あとで取り戻そうとしても遅い場合がある。気が付いたときには頭は良くとも社会に適応できず引きこもりになったり、家庭人として不適格で離婚になるケースもある。
 私自身スポーツは苦手なので長女が高校でハンドボールをやりたいと言い出したとき猛烈に反対した。当地の国立大を希望していた長女に確か「貴女の頭で部活をやりながら合格できる訳ないでしょ」と言ったのを覚えている。しかし長女は頑として部活を辞めなかった。が、今では続けさせて良かったと思っている。長女の一生の親友(達)が高校の部活によって出会えたこと、集団での立ち居振る舞い、礼儀、協調性、気配りその他大人になるに必要な社会人力が養われた。後に薬剤師として働くようになって病院のスタッフの方たち、後に勤めた調剤薬局の同僚の人たち皆さんから好かれた。結婚で辞めるときも、そして今回の婿殿の転勤で仙台を離れる際にもたくさんの方たちがお別れ会に来て下さったそうだ。
 下の3人の弟たちは高校、大学とも部活(体育会系)を続けた。3人共諸々の大会で優勝したほどの熱の入れようだ。その三男がこの春より就職活動をしてきた。彼が企業を選んだ基準は「できるだけ多くの人と関わる仕事に就きたい」と「より厳しい状況に身を置いて自分を鍛えたい」の2点だったそうだ。結果、お陰様で国内外4社の試験及び面接の後内定をいただいた。その中から彼は多数応募の中の数名枠に内定の運びとなった外資系企業のSE(システムエンジニア)の職を選択した。あの野育ちのわんぱく小僧が・・・と思うと社会の恩を感ぜずにはいられない。
 だが、外資ということで特に英語の出来る人材を募集していたかと言えばそうではない。また学歴優秀な人材を集めたのかと言うとそうでもない。そうであれば東京の某大学の学生だけを集めればよいだろう。それでは何を基準に採用を決めるのだろうか。 折しも「プレジデントFamily」7月号で「超人気企業の人事採用担当者に聞きました。今、社会ではこんな力が求められている」 と題して特集を載せていた。それによると学校での成績よりもポテンシャルの高さ、チームワーク力と創造力、前向きに物事に取り組める人、落ち込んだり浮ついたりしないメンタル面の強さが必要(ゴールドマンサックス)、専門的なスキルより人間的な魅力を重視、諦めず頑張り続けることの出来る人(全日空)、物事に対して前向きに、しかも楽しく取り組める人、周囲に思いやりを持って行動でき、コミューニケーション能力のある人(サントリー)、この人と一緒に働きたいと思える「人間的魅力の高い人」ストレス耐性を含め「精神力の強い人」、逆に採用したくないのは「可もなく不可もなく特徴がない、欠点がない人」社会人になるまでの20数年間にどんな苦労をしどう克服してきたか(三菱電機)、単純に偏差値だけ高い人、人の気持ちのわからない人は絶対に採用しない。場の空気を読めない人はダメ(フジテレビ)、自分の頭で考え、自分の両足で立って、自分で判断して行動できる能力を持った人(三菱東京UFJ銀行)・・・。部活動について「部活動をやれば経験の幅が広がる。チームプレーを学んだり、先輩後輩など同級生以外との接点もできる。ひとつの目標に向かって、みんなで何かをやることは貴重な体験。得るものは多い(サントリー)、採用の際一生懸命ひとつのことに打ち込んできた人は、それだけで評価できるということで体育会系の評価は高い(JTB)、部活動をやりながら成績も良いという人はタイムマネージメントができるという評価になる(住友商事)、のめり込めるということは大切なこと、本当に好きで一生懸命のめり込んだ経験がある人は就職してから仕事にものめり込めるものです(三菱東京UFJ)。英語力はあったほうが良いという程度で英語は就職後でも十分間に合うということ、小学校からやる必要は特にない、とのことでした。
 結論として、子供にすばらしい人生を花開かせてあげるには、勉強のみを押し付けていただけでは果たせないのだということ。先般もあるタレントが「電車の中で目の前にお年寄りが立っているのに席を譲ることもなく勉強をしている小学生に出会った」と憤懣やるかたない表情で話していた。今子育て真っ最中のお子さんを持つ親御さんには是非勉強以外ののめり込めるもの(EX.スポーツ、他)をお子さんにさせてあげてください。そして人間力、社会力を育ててください。 「急がば回れ」です。

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6月24日(日)

<お互い様の心>

ブラウン、ブラックの子の子達が何頭か新しいオーナー様に決まり旅立って行った。3月ごろまとまって何胎か出産が重なったためすぐに決まらない子達が出た。特に欠点や欠陥があるわけでもなく獣医師の健康診断も済んでいる。当犬舎では通常生後2ヶ月目にワクチンを接種し1週間安静にして譲渡の運びになる。生後45日目や50日目で譲渡するところもあるようだが離乳して直ぐではかわいそうだし兄弟や他の子達との社会性を少しなりとも身につけさせ、母体からの免疫の切れる2ヶ月目にワクチンを接種して予後の経過を見てからオーナー様に引き継いでいる。通常通りにお譲り出来た子は幸せだが、まだ決まらない子は他の子達とのコミューニケーションは十分取れるが人との関わりが希薄になりがちで可愛そうだ。私の顔を見ると「抱っこして〜」「遊ぼうよ!」と熱心に話しかけてくる。抱き上げてお顔を見ると満足そうに顔をぺろぺろ舐める。他の子達はもう一般のご家庭で可愛がられているだろうのにと思うとかわいそうで、純粋でつぶらな瞳を見ては思わず「可愛いのにね〜」「早く新しいお家が見つかるといいね〜、ごめんね。」と言葉が口をついて出る。が、愛情に飢えていた分、新しい飼い主様が決まった折にはきっと嬉しくて嬉しくてなつきまくり家族にすんなり溶け込んでいくことだろう。ブラウンの女の子も譲渡時期が少々遅れたが、着いた早々新しいオーナー様より早速に「こんな可愛いくて良い子をどうも有難うございました!」とご連絡をいただいた。お礼を言うのは私のほうだ。嬉しくて思わず「どうぞ末永く可愛がってあげてください!」と受話器を置いた。幸福行きの切符を手にする子犬たちの仕合せ及び新しいオーナー様の仕合せが=私の仕合せになっているのだな、と改めて気がつかされた。 
 このところ保護者による先生へのクレーム問題がマスコミで取り上げられている。教室のガラスを割ったわが子を「ガラスが割れたのは石のせい。うちの子のせいではない」と言う親。「出席番号42番は縁起が悪いから変えてくれ」と言う親。悪いことをして子供を叱った教師に逆切れする父兄、中にはクレームを言いに来た日や授業参観で仕事を休んだ日の日当を払えというのまであるそうで驚いてしまう。その他にもいろいろある。いずれにしても全て我が子さえよければ、という自己中心的なものの見方しかできない親の現状だと報道していた。なるほどと思う。しかし我が子のため先生にクレームをつけることが本当に我が子のためになっているのだろうか。それを後ろで見ている子供はどう思うのだろうか。クレーマーな親からはクレーマーの子供が育つ。この先々子供も先生や周りの人たちをそういう目で見るようになるだろう。自分はさておいて他人の批判ばかりをしている人間に。なぜなら「子は親の鏡」だからだ。
 確かに物申す親の心理を探ると、単なる自己中だけではなく教師の言動に疑問を持つ場合があるかもしれない。
我が家でも4人も子供がいるとその分、数多い先生に出会ってきた。中にはご自分の名誉のために子供に厳しく当たる担任教師もいた。だが、物事は見方によって随分と変るのだ。
ex
.宿題を出さない先生に手抜きをしていると批判する。だが、子供の自主性を尊重して自由学習を促していると捉えることもできる。全て良く解釈するか、悪く解釈するかのどちらかだと思うのだ。この場合物事を美しく見る人の方が人格は上だろう。前にも書いたが子供にとって先生は「教えてもらう」というだけで目上であり敬していかなければならない存在だ。主人も私も幼稚園、保育園、小中学校、高校、大学・・・と一貫して子供たちの先生に不足を思ったり、文句を言ったことはない。それゆえに子供から先生を腐す言葉を聞いたことはない。例え思ったとしても親がまともに取り合わなければこんなものだろうと思うのだ。世の中に出て100%理想的な上司や同僚、あるいは伴侶などいるだろうか、恐らくほとんどいないだろう。その多くは理想とかけ離れた人たちの中でも何とかうまく合わせていくのが世の中なのだ。だとしたら保護者から見て理想的でない教師そのものを受け入れ美点を子供に伝えていくことのほうが、子供にとってプラスになるとは言えないだろうか。見方を変えればいろいろな人と合わせていく訓練にもなる。私などは欠陥だらけの人間なのでどの先生もすばらしいと思って過ごしてきた。
 逆の立場になるが、以前15年ほど自宅で小中学生向けの学習塾を開いていた。数多い塾生の中には途中で辞めていく生徒も何人かはいたが、中には私のような講師でも素直についてきてくれた生徒たちがいた。その中のK君は小学4年から私のところに通い始めた。教科は、小学校時は算数、国語、英語。中学からは5教科だ。父親は高校の教師で母親はたしか、元小学校の教師だった。両親とも教師であれば塾に対し、「こうして欲しい」「こうあるべきではないか」などクレームをつけたくなるのが人情というものだろう。だが、K君の両親は6年間の塾通いの間一言も要望や文句を出したことがない。一切を任せていただいているという印象を受けた。その通りK君も大らか&ひょうきんでよく私と冗談のキャッチボールをしながら授業をしたものだったが、とても素直に言われたことをちゃんとやってくるので成績は常にトップクラスだった。たまにお母さんに道で会うと本当に平身低頭で挨拶される。とても謙虚な方だ。努力の末高校は第一志望の進学校に合格したが、息子も通っている関係で学園祭を夫婦で見に行くと、遠くからK君が私たちの姿を見つけ走りよって話しかけてくれるのだった。普通この年代だと照れもあって卒業後は「他人顔」をしている熟生もいる中で・・。正に親の姿がK君そのものだった。恐らく高校の先生に対しても同じ態度だったろうと想像する。後に彼は当地の国立大(東北大)に合格した。知情意バランスよく成長した一人と言ってよいだろう。
 子供を人質にとられているから黙っているなどと言う姑息な考えとは意を異にする。教えてもらう立場で敬するのである。敬の心がなければ勉強も決して身につかない。信じて付いてきてくれる生徒に先生の人柄が変わることだってあるのだ。
 聖書に娼婦マグダラのマリアに石を打っている民衆に対しイエス・キリストが「この中で今まで一度も罪を犯したことの無い者がいれば石を打つが良い」と言った名場面があるが、日本にはもともと良い風習があった。「お互い様」と言う考え方だ。他人を責め他人ばかりを悪者にすることのない日本古来の「お互い様」という人を許す考えが、周りの人間関係を和やかなものにしてきたのだ。そしてそうした親の後ろ姿を見てきた子供=次代をになう大人が「お互い様」精神を引き継いできたとも言える。だが、逆の場合で何でもクレームをつけ人を責める親の後ろ姿を見てきた子供達がたどる未来図を予想すると何だか世の中が殺伐として末恐ろしく感じてならない・・・。



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