アマンダおばさんの
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8/4(木)

<お年寄りへ 癒し犬のススメ>

先日海外から1通のメールが届いた。どの国かは用心のためか記載されていない。内容を拝見すると、留学かお仕事のために国外に住んで居られる日本人の女性のようだ。日本にいるご両親のために子犬をプレゼントしたいとのお申し出である。ご予算を伺うとかなりの低価格。犬種は問わないと言う。が、ショップさんに卸すダックスの価格より安価な設定だ。はたと迷った。子犬の収益は利益というより犬舎にいる多数のわんこたちの経費に充てられるからだ。だがしかしご本人の親御さんを思う気持ちに心動かされた。ただ今お譲りできる子犬(ダックス)を検討中である。
 つい2,3日前も再放送で痴呆や要介護老人の施設で癒し犬がたいそう効果をあげていることを放映していた。ワンコが傍にいるだけで心が和み今まで笑うことが少なかったお年寄りが心を開き笑うようになり、歩けなかったお年寄りがワンコと一緒に歩調を合わせて歩けるようになり、痴呆のおばあちゃんがワンコの名前を思い出すことによって記憶力を取り戻すことができたり・・・とワンコとともに生活することが癒しになるばかりではなくそれ以上のいろいろな効果をあげていることがわかった。
 父の生前、小さなヨーキーの「マミ」は父の「腰ぎんちゃく」であった。父が昼寝をすると決まって仰向けになった父の腹の上に乗って一緒に昼寝をした。トイレに行けば父が出るまでドアのところで待っていた。入浴の際も同じである、風呂場のマットで伏せて待っていた。時には一緒にお風呂に入ったとも聞いている。車で買い物に行く時は一緒に連れて行き、真夏以外は買い物中車の中で待たせておいた。父が室内犬を飼い始めたのは今から40年前だった。そのころ純粋犬はまだ珍しい時代で、今と違ってレストランでも旅館でもワンコ同伴でOKだった。父は行く先々で自分のワンコが「可愛い」と褒められるのが嬉しい様子だった。家族旅行で愛犬と一緒に枕を並べることは一興だった。時には不慣れな旅館の布団におしっこをもらしたこともある(ごめんなさい・・・)。純粋犬や室内犬が増えるに従い「犬持ち込み禁止」のレストランが増える時期に、父は一旦入ったレストランでワンコ同伴を断られ怒って出てきたこともある。
 いつ裏切るともしれないへたな人間より、一途に信じてついてきてくれる純粋なワンコに心惹かれた父であった。ワンコと一緒の時きっと父は心穏やかだったに違いない。一人では話しかける相手も限られてくる。だがワンコといると自ずと会話が生まれワンコを媒介に話がはずむ。広いアプローチで用をたすマミちゃんを「だし」に、犬を連れて散歩に通りかかる人を「張って」待っていた。父はワンコのお陰で「お友達」が増えワン仲間が出来た。
 遺品となった父の車は現在大学生の次男が運転している。用心棒代わりに母の所に寝泊りしている彼がその車で帰ってくると、音を聞きつけたマミちゃんは父が帰ってきたかと思い、耳をピンと立て、尻尾を振り振り喜び勇んで玄関まで飛んでいく。だがしかし、玄関から入ってきた人を目にするのは父ではない。次男の姿だ。
 今マミちゃんは父の祭壇の前に敷かれた金色の「りっぱな」座布団の上で昼寝をしていることが多い。父の遺影の前で在りし日の父のぬくもりを思い出しながら・・・。



8/12(金)

<子犬選び>

子犬を選ぶ時のタイプに2通りある。1つはあれこれ考えずにぱっと決めるタイプ。もう1つはいろいろ迷って決めるかあるいはなかなか決められないタイプ。自分のことを振り返って見る。飛び切りのヨーキーを捜した30数年前、またブリーダーになり初めの20余年前私はベストなわんこを求めようと躍起になっていた。犬種の専門書を購入しスタンダードを研究した。かたっぱしから電話をし、多数のブリーダーさんに質問をした。良く言うと拘っていた、悪く言うと執着心旺盛だった。が、ある時先輩より[あまり拘る人にはどういうわけか良い子犬が渡らないんですよね。不思議なことに細いことを気にしない人には結果的に良い子犬が行くんですよ〜。]と言われた。その時点では「そういうものか・・・」という程度で半分も分かっていなかった。しかし自分がたどった経験そして種々見聞きするにつけ、今 先輩の言葉の深い意味がよく理解できる。
 先輩は例をあげて教えてくれた。プードルで断尾の際短く切ってしまった子犬。売りにくい中「そんなこと気にしないから」といって購入していった人がいる。ところがその子犬は性格がよくどんな子にもちゃんと交配し種オスとしてとても役に立っていると喜ばれたそうだ。その方はその一件だけではなく同じお店から過去に何頭か購入しているが、あれこれ迷わず第一勘で子犬選びをし、こまいことに拘らないのでいつも良い子に当たるのだと付け加えて話してくれた。
 私自身あるわんこに拘って通常の倍の価格でプードルを購入したことがあった。倍の価格でも手に入れたかった。執着心旺盛だった。が2、3回お産した後亡くなってしまった。30数年前の特上のヨーキーも結局は手放してしまった。逆に成り行きで購入したワンコが犬質の良い子犬を産んでくれてお助け犬になっている。通常のペット飼いの場合ブリーディングには関係のない話になるかもしれない、だが理屈は同じだ。吟味しすぎた子は反動で何かが起きる。あるいは神経質なオーナーの性格がいろいろな形でわんこに災いする。逆におおらかに選んだわんこの場合、わんこのあるがままを愛せるのでトラブルが起こらない、わんこも持って生まれた良いものを十分発揮でき仕合せな一生が過ごせる。ちなみに、当犬舎人気bPになっている譲渡犬のMちゃんは、前予約者がご家庭の事情でキャンセルされたワンちゃんだった。もちろんその旨ご了解の下お譲りさせていただいたものである。
 そもそも生き物に「完璧」は有り得ないのだ。自分自身を振り返ってみると良く分かる。自分が果たして外見内面ともに完璧だろうか。あるいはお子さんが居られる方・・・果たしてご自分のお子さんは完璧に育っているだろうか? 何も心配なところはないであろうか。 何もかもが完全に満足がいくことなど有り得ない話である。いわんや子犬にパーフェクトを求めることなど最初から無理なことである。無理なこと、不自然なことをなした結果は・・・・たとえ手に入れられたとしても結果は決して良くないのである。早くに亡くなってしまったり何か欠陥が出てきたりする・・・。
 私自身良し悪しを多数経験し学習した結果、現在はあまり拘泥しないようになった。70〜80%良ければそれで良し、と受け取れるようになった。多少理想と違っていても長年生活を共にするうちに性格が飛び切り良いことに気がついたり、少々サイズがオーバーしたとしても頭が賢く人の気持ちがよく分かる子に育ってくれたり、本犬はそれほどの美人さんでなくともいわゆる子出し(良い子を産む)が良かったり・・・と捜せばよいところが必ず見つかるものだ。ご縁のあったワンコのあるがままを受け入れることによってその代償として、あるいはご褒美として、オーナー様に大いなる幸いと喜びがもたらされるのでは、とそう思うのであります。



8/23(火)

<戦争について>

 戦後60年を迎えるに当たりテレビなどメディアを通し様々な角度から戦争の実態を垣間見た。広島、長崎への原爆投下の悲惨さ、日本各地への大空襲、サイパンでの万歳クリッフ、NHKではアウシュビッツ収容所の残忍さを連夜放送していた。今でも残るベトナム戦争の傷跡、更にいまだかつて終局を迎えていないイラク戦争、イラク人はもとよりアメリカ帰還兵のその後も深刻な問題だ。幾度繰り替えしてもやまない戦争。いつの時代も世界のどこかで常に争い事が起きている。もはや人口減らしのために神が仕組んだ業なのではないかと疑いたくなるほどだ。誰もが悪いと認めている戦争、だがなくならないのはなぜだろうか。それは私達一人一人の奥底に巣食っている我欲であり、人と争う心そのものが原因ではないだろうか。戦争は政治家だけが悪いのではない、戦争の火種は誰の心にも宿っている。自己中心的なものの考え及び他者を排する心、物とお金に心を奪われた生き方。人を敬することや愛することを知らない人生 等 等・・・。そのどれもが対岸の火事ではない、ひとつひとつのマイナス因子が全て戦争につながっている・・。
 人という字は互いに支えあっている人間を表している。「人間」はじんかんとも読む。人は決して一人では生きられない。2人以上で生活する時は自分だけではなく相手のことも考えないとうまくやっていけない。主人が「〜のラーメンがおいしいから食べに行こうよ」と言う。一瞬「ダイエット中なのに・・・食べたらまた元に戻ってしまう」、と思う。けれども「まあいいか、カロリーオーバーした分夕飯で減らせばいい」、と受け取って相手に合わせる。 出勤時「このYシャツを着るからアイロンをかけてくれ」と言う主人。 「クリーニングに出してあるあのYシャツなら手間がかからなくていいのに」と思う。だがしかし「主人は今日このシャツが着たいんだ」と思い直してアイロンをかける。休みの日、あのテレビ番組が見たいが主人はスポーツ番組に熱中している。しかし、日ごろ独占しているテレビ故 休みの日位は主人の見たいものを見てください、と心切り替えた時に、主人から「何か見たいものあるの?」と聞いてもらえる。さりげない受け取りの機微が夫婦関係を、あるいは他者との関係を良くも悪くもする。まさに幸福とは自分の我欲を実現することでも、はたまたお金儲けをすることでもない、身近なところの身近な人との心の通じ合いであることを実感するものである。
 しかし人間は不完全な動物だ。いつもいつも良い受け取りが出来るとは限らない。5月に入ったばかりの頃だった。何ヶ月かぶりで夫婦の雲行きが怪しくなった。原因は・・・庭の花にホースで水をかけてくれるよう主人に頼んだところ、水の勢いのまま上から大量にかけたため花が折れてしまったことだった。庭いじりは全く苦手な主人で、そういえば去年の今頃も草むしりを頼んだら、やっと手に入れたお気に入りの苗まで根っこからひっこ抜いてしまった。過去のことまでふつふつと蘇り、自分では押さえて言ったつもりの一言で、夫婦水入らず明るく楽しいはずの休日が暗く怒りに満ちた日曜日になってしまった。「悪かったって謝っただろう!」「謝ったってもとには戻らない!」 以来2階に籠城を決め込んだ主人。主人なんかいなくともちゃーんと楽しくやれるのよ、心の中で宣言した私。日ごろ出来ないでいた庭いじり、花いじりをやりまくった。喧嘩をしたお陰で主人を気にかけることもなく、思う存分好きなことが出来るわ、とばかり夕方近くまで延々と庭いじりをした。 しかし、木でできたビヤ樽に花を植え込み、さて、樽を移動しようと思ったその時である。この樽がてこでも動かない。 「こんな陽の当たらない場所には置いておけない・・・どうしてもあの陽のさす明るい場所に 移動しなければ・・・とありったけの力をこめて持ち上げた。しかし微動だにしないのだ。せいぜい少しだけ横にずらせる程度だ。門のあそこまでは遠いし段差もある・・・。はたと困った。 こんな時、主人に一声かけてお願いすればすぐにでも一緒に運んでくれるはずだ。 しかし、・・今更主人には頼めない・・・女の意地だ、え〜いとばかりにもう一度持ち上げて見た。が、やはりだめだった。 その時私はふと、この樽の重さは夫婦不和の重さであることに気がついた。喧嘩をしてもべ〜つに〜、と軽く思っていたことが、実はかなりの重さでのしかかってきたのだ。心は偽っていてもその日一日が暗雲がたちこめたような暗い一日であったことがその証拠である。日ごろ夫婦が仲良く円満であったことが、当たり前ではなく、実はかなりの重さを持って家庭生活を維持していたのだという事にも気が付いた。そうした時に、掃除機が詰まったからといってゴミをホースから取り出してくれたのは主人だった、コンタクトを落とし困っていた時一緒になって捜してくれたのも主人だった。車のバッテリーがあがったといってはどこからともなく飛んで来て充電してくれたのも主人、子供の進学のことで不安いっぱいだった時、お題目のように「だいじょうぶ、だいじょうぶ、何とかなるから」と安心させてくれたのも他ならぬ主人だった・・・。困った時には「白馬に乗った王子様」いつもいつも助けてくれた主人である。十やってくれた内の1つが足りなかったからと言って何を不足に思うことがあろうか。何とわがままな自分だったのだろうか・・・と振り返った時、素直に謝ることができたのだ。そして和やかな生活を存続させるためどれだけ主人が私の足りない部分を補い満たしてくれていたのだろうかと思い至ったとき、もっと感謝の心で主人に接していかなければ、と改めて思わされたものである。
 戦争は宗教が介在しようとも、結局のところ自らの利を立て 他人を拒否する人の心が火種になって起こる。私自らが己の生活を振り返り、戦争への加担者になることを防ぐ毎日であらねば、と感じさせられる。まず「隗より始めよ」・・・一番身近なご主人やご両親、ご家族、近隣の人々・・・と愛和してゆくことが、とりもなおさず戦争を無くすことにつながるのではないだろうか。



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