アマンダおばさんの
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8月31日(水)

<自立の心>

少し前までの猛暑がうそのように、めっきり秋の気配を漂わせている今日この頃。「暑いのはお盆まで」と頑張ってきたが、例年に違わず約束通りにひょいっと抜けたように涼しくなった。南方の方々には悪いのだが、こんな時「東北に生まれて良かった!」、と思う瞬間でもある。それでも被災地の方々にはたいへんな夏だったに違いない・・・。
 老後の楽しみを今から作っておかなければとバラ作りを始めた。何年か前にも何種類か集めたが手入れも何もせずにいたためそのうちいくつかは消えてなくなってしまっていた。が、今は病気に強い品種が多くなったせいもあって素人でも比較的容易に作れるようになった。毎日庭に出て植え替えしたり、アーチに誘因したりバラと対面しているうちにワンコと同じに命あるものへの愛着が強くなった。「今日は元気?」と葉っぱの様子を見ては安心したり慌てたりの毎日だ。ワンコ達の世話が始まる前の1時間半はもっぱら庭に出ることが日課になった。
 バラのことを勉強していくうちに水やりについて学ぶことがあった。水は表土が乾いたら下から流れ出るほどたっぷりと与える。ただ単に毎日定期的に水やりをすれば良いと言うわけではない、と。<ベテランの方々はとっくにご存じのことですが> 過保護にして水を与え過ぎると根がひ弱になって丈夫な苗に育たないのだそうだ。時には根が腐って枯れてしまうこともある。ぎりぎりまで我慢させることにより、乾燥に耐える辛抱強い木になって初めてあの美しいバラの花が咲くという。
 ふと、人間も同じではないかと気がついた。昔子供だったころ、よく小学校で回虫の検査というのがあった。便を持って行って検査をしてもらい結果によって駆虫をする。毎年、確か春ごろに定期的に実施したのではないかと思うのだが、ということはあの頃の子供たちにはお腹に虫がいたのだ。たぶん農作物の肥料が人糞だったことに起因しているのだろう、同じく大人にもいたに違いない。いきなり汚い話で恐縮だが、ただあの頃はあまりアレルギーというのを聞いたことがない。皆無ということはなかったかもしれないが、アトピー症、喘息、鼻炎、花粉症などという言葉は頻繁に耳に入ってくることはなかった。物の本によると、回虫などの線虫とアレルギーとは関係があって、人間の体内での線虫の働きがアレルギーを抑える作用をしているということらしい。今でもアフリカの奥地に研究等で行かなければならない某人は出かける前に線虫を飲んで行くそうである。現在、花粉予報等があるほどにアレルギー症の人が多いのは、駆虫のし過ぎと抗菌のし過ぎが原因ではないだろうか。とすれば、少しくらい汚くともラフに育った方が丈夫に、健康に育つということかもしれない。
 ワンコを育ててみても同じことが言える。検便をして何かいる場合抗生物質を投与するのは簡単だ。だが、その分腸がやられてしまう。薬が悪玉菌のみならず善玉菌まで殺してしまうのだ。また薬自体の副作用もある。もともとワンコには内在する菌や虫がいる。環境が安定しているときに表に出ないだけのことなのだ。私のところでは、よっぽどのひどい状態でない限りは温存させている。そして整腸剤で自ら善玉菌を増やして悪玉菌をやっつける、いわゆる自浄能力を高める習慣をつけているのだ。ビオフェルミンやヨーグルト(脂肪0)で腸を丈夫にすると体全体の免疫力も高まるという。それによって病気に対する抵抗力が増すのであれば一石二鳥ではないだろうか。過保護にせず自らの力で自分を守り育てるというスタンスが望まれる。もちろん子犬の譲渡の折には検便をし、虫・菌ともマイナスの状態でお渡ししているが。
 人間の子育てでも同様だ。我が家の子供たちは過保護ではもちろんなく、かといって放任でもない。困難なことに遭遇した時に自らの力で乗り越えていくように見守ってきた。親という字は木の上に立って見ると書く。木の上に立っているポジションでは子供に直に手を差し伸べることはできない。困難を子供自身が乗り越えていけるよう遠くから見守ることなのだ。子供たちの小中学校時には給食にお箸やフォークを持っていくことになっていた。今でもそうだろうか。朝登校する子供に向かって「お箸は持ったの? ~は入れた?」など注意を促す親は多いかもしれない。だが我が家では給食の箸を初め忘れ物がないか子供に注意したことはほとんどない。ちゃんとやっていたからか? いや、全然ちゃんとなどやってはいない。想像するに、きっとたぶん「忘れ物4兄弟」等と言われていたのではないだろうか(想像だが)。家庭訪問で「もう少しよく見てあげてください」と先生から注意されたこともある。「はい、申し訳ありません。」などとしおらしくその場を収めたが、次の日にはすっかり忘れている。親がこうだから、子供が忘れるのももっともだ(汗)。4人のうち長女は女の子だったのでそのうちきれいに洗って持って行くようになった。だが、長男、次男、三男は・・・。休み時間に取りに来たこともある。長男は考えて割り箸を束にして持って行って少しずつ使ったらしい。次男は前日使ったお箸を学校の水道で洗って使っていたと言う。三男などはごはんが入っているタッパーの蓋を丸めて食べたという。犬食いをしたこともあったらしい。
 わざわざ我が家の恥?をお披露目するようだが、今振り返ってもこうした経験は決して無駄ではなかったと思っている。もともと学校で必要な物は自分自身で揃えるのが当たり前なのだ。すべて自分のことは自分が責任を持って行い、万一不測の事態が生じたときはその都度どうやったら困難を乗り越えられるか知恵を絞り、自分で解決していくべきことではないだろうか。その積み重ねがひいては生きる力になる。過保護に与えられることを待つだけで育った人間は決して丈夫な苗にはなれないのだ。
 功を奏したかどうかはわからないが、我が家の子供たちから職場での愚痴や小言、弱音を聞いたことはない。皆それぞれ自分の適性に合った職業に就き、良い上司に恵まれ、社会の一員として意欲的にそして楽しく仕事をさせていただいている。少なくとも危機管理能力は育っており、様々な場面で役に立っているのではないだろうか。お陰様である。
 すでに老境に分け入った私だが、自分自身も体が動ける内は出来るだけ他人に頼らず、自らの足で立っていきたいと念じている。


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Copyright(C) 2001 S.Miyazawa
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